10/16(土)の13〜16時に、宮島ユネスコ協会の岡崎環先生をお招きし「歴史から考える中江のまちづくり」というテーマでご講演いただきました。
先生は宮島と関わりを持つようになって50年以上、宮島の変遷を見守ってこられ、一番印象深かったのは1996年に宮島が世界遺産に登録されたときだそうです。世界遺産はユネスコによって登録される、未来に残すべき人類共通の遺産です。
厳島神社は12世紀に平清盛によって造営され、度重なる自然災害に見舞われながらも創建当時の姿を今に伝えています。建物の価値は言うまでもなく、それを守り続けた人がいるということが大切だと先生は言います。海上に建てられた神社を維持していくことはとても大変なことです。神社の拝殿に大きな太鼓があり、厳島神社が被害を受けそうになると、その太鼓を叩いたそうです。そうすると住民が出てきて神社を被害から守るのを手伝ったそうです。守ろうとする神職や住民の大変な努力があってこそ、厳島神社は世界遺産に登録されたのです。
宮島は古くから多くの法律によって守られてきました。例えば、宮島は島全体が「特別史跡」かつ「特別名勝」であって、それは宮島島民が金閣寺の庭園に住んでいることに相当します。そのため、数多くの規制が存在しています。そのような規制を設けることで、島が姿を変えてしまうことを防いできました。それは同時に、住民の暮らしを制限することでもありますが、住民はそれを受け入れ、島が形を変えてしまうのを防いできたそうです。
宮島では多くの町でそれぞれお世話をする寺社があり、お祭りが行われます。宮島の数々の習わしを継承し、島が姿を変えてしまうことを防ぐ上で、祭りも重要な役割を果たしてきました。準備から後片付けまで、地域の老若男女が一堂に会することで、情報交換を行うことに加え、もしもの時にはこうしようね、ああしようね、という意思統一、或いは、自助意識を育む場にもなったそうです。
例えば、百手祭では祭祀の最後に神官と滝町の参列者で直会(なおらえ)が行われます。この直会で出される料理を餝飯(ほうはん)といい、滝町の方々は、切り方、盛り付け方、炊き方などを今日まで言い伝えてきました。餝飯を盛り付ける食器も今に至るまで大切に保管されています。南町の四宮神社祭「たのもさん」では、対岸から持ち込まれる農作物(宮島は信仰の島なので明治初期まで耕作は禁じられていた)に対する感謝の念を表すため「たのも船」という手製の小船を作り、対岸に向けて流します。そこでは、対岸の人々との交流も行なわれてきたのです。
「中江(ちゅうえ)」という名前は古くから使われてきたそうです。「中江」、「中江小路」、「柳小路」とかといった記述が、1500年代の資料から出てきます。なぜ「中江」というか、なぜ「柳小路」というかという理由はわかりません。江戸時代には、神社に仕える方、職人さんたちが暮らす静かな場所だったそうです。かつて、中江町には猿田彦を祭った神社や中江町の奥には永元寺(江戸時代には廃寺)、中江薬師(明治時代に消滅) などの寺社があったようですが、今はなく、祭りも行なわれていません。
先生が訪日外国人観光客誘致政策に携わっておられた時に、海外からのマスコミ取材陣と食事をする機会があったそうです。席に着くと、先生の同席者が滾々と宮島についての歴史の話を始めたそうです。それを聞いた海外からの取材陣は「豊かな歴史があるのはわかるが、歴史はどこの国にもある。私たちが感動しているのは、いまの神社があの場所であの形であるだ」と言ったそうです。
宮島に暮らす人々は自然を大きく変えないで暮らしてきました。人々と交流をしながら互いに助け合って暮らしてきました。それは、世界に誇れることです。宮島は島から離れるに従って、評価が高くなります。島の人、対岸の人、広島の人の評価はそれほど高くありませんが、県外、海外と宮島からの距離が離れるにつれて、評価が高くなります。宮島の人は、自分たちの守ってきたものにもっと自信を持っていいと思います。
これら歴史を踏まえて中江のまちづくりを考えてみると、私は、住民の方々がこの場所での暮らしの中で守り続けてきたものを続けていくことが大事だと思います。簡単なことでいいんです。
宮島では節分に「たわらくい」を家の玄関に吊るします。これは、厄払いのためのもので、昔は多くの家々で見かけるものでした。それが、年々数を減らし、今では数軒を残すのみになりました。例えば、強要はしませんが、中江でそれを復活させてみるのはどうでしょうか。節分に中江町の通りでたわらくいが並んだら、通りを通る人は、宮島には神様・仏様がいらっしゃるんだということを再発見することにもなり、宮島を訪れる者へのおもてなしにもなるのではないかと思います。
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